バラード総論

4つのバラード、特に第4番はショパンの最高傑作の1つに数えられています。100年以上の間に、無数の音楽学者、伝記作家や評論家という専門家がいろいろな角度から論じているのに、素人の私が何を付け加えられるか、思案投げ首していましたが、勇気を奮って?ここで私の視点からバラードを論じることを試みました。

ショパンはワルシャワ時代に、彼が尊敬していたポーランドの愛国詩人ミツキエヴィッチ の叙事詩を愛読していたことは間違いありません。夭折した幼友達ヤン・ビアウォブウォーツキに送った手紙の中にミツキエヴィッチが引用されていることからも明らかですから、ショパンが鼓舞されたと言われる1823年に出版された叙事詩 konrad Wallenrod を読んでいたことは想像に難くありません。


作品38のバラード第2番を献呈されたシューマンがショパンはこの叙事詩を元にバラードを作曲したと言ったそうです。その根拠は明らかではありません。シューマンという人は何事も文学に結びつけたり、美文口調の文章を書くので、ショパンに嫌がれました
 * しかし、日本の音楽評論家先生達にはシューマンの評論をそのまま無批判に受け入れている傾向が見られます。コンチェルトの管弦楽手法や、ソナタ第2番などに対する、すでに時代遅れになっているシューマンの批評を未だに金科玉条として受け入れているなど噴飯ものです。

以前は、4曲のバラード全てに ミツキエヴィッチ の具体的な作品を当てはめて解説する作品紹介書が出ていましたが、最近は次第に影を潜め冷静に見るようになっています。
ショパンは標題音楽を認めませんでしたから、特定の叙事詩を描写するような曲を 書くという発想は、おそらく浮かばなかったことでしょう。


ワルシャワでのショパン一家は音楽のみならず広く文芸に親しむ環境でした。ショパンは6歳の時に詩を書いたそうです。また、諧謔心に富み、身近な人々のカリカチュアを描いていたこともよく知られています。中学時代には文学、歴史を学び教養を深めました。ギリシャ、ローマの神話その他、古典文学に関する彼の広範な知識は、友人への手紙からも窺われます。一方、アレキサンドル1世の後を継いだニコライ1世の弾圧の下でワルシャワ市民の中に愛国的感情が高まり、若者達はアングラカフェに集って、夜遅くまで革命について熱く論議を闘わすようになりました 。ショパンも当然その渦中にいたのです。その中でミツキエヴィッチの愛国詩は彼らの精神的支柱となったに違いありません。

これらの文化的、政治的環境がバラードを作曲するための基盤となっていたと私は推測するのです。


バラード第1番はショパンがパリで活躍を始めて間もなく着手されたようです。その頃、多くのポーランドからの亡命者がパリに集まり、ショパンは彼らのための慈善コンサートを開くなどして援助しています。ミツキエヴィッチもパリに亡命し、ショパンと接触しています。また、ショパンの名声が広まるにつれ、彼にオペラを書くようにという圧力が強まりましたが、ショパンはその声には決して耳を傾けようとしませんでした。彼は純粋音楽にしか関心を持たなかったのです。歌曲を作曲していますが、それは個人的な慰めのためだったのでしょう、出版する意図はありませんでした。

前書きが大変長くなってしまいましたが、ショパンは詩形としてのバラードに興味を持ち、これを音楽の世界に移植しようと思っていたと想像するのです。

バラード(ballade)は元々南仏プロヴァンスから広まった舞踏歌で、吟遊詩人が芸術的に洗練してこれを一定の韻律をもった8行の3句節と4行の結びの句とからなる厳格な形式として仕上げたフランスの詩形です。

8行の韻律は ababbcbC 、そして結びの句は bcbC とするのが基本とされています。大文字のC は各句節の終わりに付けられるとされてます。ここでもちろん変形が多数あります。10行ではababbccdcD、7行ではababbcCなどですが、結びの句はありません。
一方、バラッド(ballad)はイギリスでは踊りながら歌うものだったのを、吟遊詩人が語りながら歌う形となりました。つまり物語詩の誕生です。これが踊りに際して歌われるものが広く民謡を指すようになり、さらに一般的に物語詩を指すようになったといわれています。ここには詩形をうるさく言うという発想はなかったでしょう。


洋の東西を問わず、詩形にはそれを読み上げるときのリズムについて一定の規則が定められています。俳句は五七五、和歌は五七五七七が基本です。また、韻を踏むというのは一般に詩句の語尾または語頭の音律の響きを合わせることです。詩の内容には触れないのです。
ここで詩の形式から音楽形式に目を移してみましょう。
最もポピュラーなのは3部形式、ABA 、ソナタ形式はABCAB と書けます。ここでAは第1主題、Bは第2主題、C は展開部を指します。再現部では提示部と同様に第1,第2主題が現れるから3部形式と同様に、”韻を踏んでいる”と見なすことで出来ましょう。また、ソナタ形式は3部形式の1種とも見なせます。また、ロンドはABACADなどと書けます。等々。このようにみると、各形式ともそれぞれ特定のフレーズの頭に”韻を踏んでいる”と見なすことが出来ます。
ショパンは詩形としてのバラードにヒントを得て音楽形式のバラードという全く新しいジャンルを開拓したのだといえます。ですから、バラードが3部形式、あるいはソナタ形式を採っているなどというのは見当違いであることが分かります。バラードはバラード形式なのです。ソナタ形式でのCは提示部に現れた楽句を素材として展開されるものですが、バラードのC はA とも B とも関連がないか、あるいはあっても薄いものです。この点でバラードは3部形式、ソナタ形式ではないことが明らかです。

また、なぜ ballad とせずballade と命名したのかも明らかです。物語を歌うことには関心がなかったからです。

因みに、戦前の日本の音楽界ではバラードを譚詩曲と呼んでいました。譚は物語の意味です。序でながら、ワルツは舞踏曲、ファンタジーは幻想曲、ソナタは奏鳴曲と呼んでいました。苦労して日本語に翻訳していたのです。

**余談になりますが、昔は欧米の国、主要都市にも当て字を使っていました。ドイツは独逸、ロシアは露西亜、スエーデンは瑞典、スイスは瑞西、ロンド ンは倫敦、パリは巴里、ベルリンは伯林、ワシントンは華府、サンフランシスコは桑港等々です。よくまあ、苦労して作ったものだと思いますが、先人の苦労の跡が偲ばれます。いっぽう、最近は何も工夫せず単にカナ書きをしているのは思考停止状態で嘆かわしく、さらに英語圏の人たちには理解不可能な和製英語がはびこっているのは恥ずかしい限りです。

 

本題に戻りましょう。4曲のバラードを纏めると次のテーブルのようになります:

作品番号
 調性
拍子
作曲年/出版年 
小節数
形式 
1
 23
 ト短調

/

 1831-35/1836  264
ABABBAC 
2
 38
 ヘ長調
 1836-39/1840  203
ABABAC
3
 47
 変イ長調
 1840-41/1842  241
AABBAC
4
 52
 ヘ短調
 1842/1843  239
AABAABC

形式 は私流に分析した大まかなものです。


上の表を見ると4曲とも6拍子を採っていることが分かります(第1番の4拍子は前奏としての最初の7小節だけです)。6拍子は歌の拍子です。ショパンの場合、子守歌、舟歌が6拍子です。このことを考えるとショパンはバラードを歌として位置づけようと思っていたことが分かります。さらに、第2番を除き激しいコーダで終わります。ここに、祖国での弾圧に対する怒りが込められているのではないでしょうか。ミツキエヴィッチの愛国心の影響はここに現れていると思います。
前述のようにC は単なるコーダではありません。第1番で57小節、第2番で64小節、第3番では定かには決められませんが少なくとも20小節、第4番でも境界がはっきりしませんが、50小節はあります。いずれもAや Bとは独立した楽想に基づいています。

さらに付け加えれば、ショパンのバラードは3句節ではなく1句節です。ですから結びの句はありません。

第1番、第2番は最初のスケッチから完成するまでに3〜4年を要しています。これはバラードという新形式を思い立ち、熟成するのに時間を掛けたからでしょう。そして1旦構想が固まった後、第3番、第4番は1〜2年で完成しています。


では各論に入りましょう。

        第1番      第2番      第3番      第4番