ショパンの伝記
ー嘘か実かー
ショパンの伝記は世界各国で出版され今や1万冊以上を数えると言われています。
リストはショパンの死後2週間の中にショパンの伝記の執筆を思い立ち、1852年にFrance
Musicale という雑誌からの リプリントとして 世に出ました。その後、1876年、1888年,1906年,1923年に再版され、1941年版にはコルトーの序言が入っているそうです。
その後、エノー(Enault、1856年初版)、タルノフスキー(Tarnowski、1871年講演、1906年英訳出版)、シュルツ(A.
Szulc、1873年出版)、カラソフスキー(karansowski、1862年より1869年までワルシャワの雑誌に連載、ドイツ語訳1877年初版、1923年邦訳)、オードレイ(Audley、1880年出版)、ニークス(Nieks、1888年出版)、ヘシック(Hoesick、1903年初版、1910年第2版、1911年第3版で1500ページ)、ヒューネカー(Huneker、1900年初版)、ワイスマン(Weissmann、1912年出版、1919年、1922年、1923年、1925年、1930年と版を重ねる)、オピエンスキー(Opienski、1909年)、ド・プールタレ(Pourtal峻、1927年出版)、マードック(Murdoch、1934年出版)、シャルリット(Scharlitt、1911年ショパンの書簡集を出版)、ヘドレイ(Hedley、1947年出版、1949年、1953年、1963年重版)、ミズワ(Mizwa、1949年出版)、ミルスカ(Mirska、1949年出版)、イワシュキェヴィッチ(Iwaszkiewicz、1955年出版、1968年邦訳)、ワインストック(Weinstock、1949年出版)、ビドゥ(Bidou、1925年出版)、 ウィエルジンスキー(Wierzynski、1951年出版、1972年邦訳)、ガンシュ(Ganche、1928年、1933年に3巻出版)、ブールニケル(1960年出版)、河上徹太郎(1962年)、メルヴィル(1977)、マレク、マレックゴードン・スミス(1978年出版、1981年邦訳)、ザモイスキ(1979年出版)、遠山一行(1988年)、属啓成(1989年出版)、タデウシュ・ジェリンスキ(1993年出版)、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ(1995年出版、2001年邦訳)シュルツ(T.
Szulc、1998年出版)達(全て敬称は略しました)が伝記/評論をものしています。数え上げたらきりがありません。この他にも部分的伝記/エピソードを記したものとして佐藤允彦、小沼ますみ、シルヴィー・ドレーグ=モワン(小坂裕子訳)の興味深い著書があります。
そんなにたくさんあるショパンの伝記はそれぞれ本当に信頼できる内容なのかという疑いを持つのは当然でしょう。実際、私がいくつかを読み続ける中に記述に矛盾があるのに気づき、どれが本当なのだろうかと疑問に思って調べてみることにしました。
ショパンの名声を窺い知っている、そしてその作品に魅了された人々(主としてフランス人)がショパンの生い立ちや性格あるいは恋愛などを知りたく思っても、ポーランド語に詳しい人は少なくてショパンの少年時代に関するデータがなかなか得られなかったし、ポーランドの歴史、文化、市民生活に関する知識がなかったのです。一方、その人生の半分をパリで過ごしながらポーランド人の誇りを保ったショパンが、ショパンという名の響きからから彼はフランス人であるとしてポーランド人であることを認めなかった狭量な19世紀パリ論壇の主張を許し難く思った、当時ロシアの属国となってしまったポーランドの音楽評論家達は、いわば名誉回復のためにショパンを偶像化して伝記を書いたのです。そのため、19世紀に書かれた伝記にはショパンを美化する沢山の作り話が書き込まれました。カラソフスキの責任は大きいようです。・・・・・大体偉人の伝記には往々にして出所不明な逸話が織り込まれるものですが・・・・でも出鱈目な作り話は却って当人を傷つけるものだと思います。
ところが、ショパンの人気に便乗して?伝記を書いたポーランド人以外の評論家、ジャーナリスト達はこれらの作り話を孫引きしたのです。それを又孫引きした人も多い。
多くは無断つまり盗用して。
ショパンは家族や友人達とよく文通していたのですが、それが次第に「発掘」されてそれまで知られていなかった事実が露わになっていきます。何とそれは20世紀にまで続いているのです。例えばニークスが執筆したときには、フォンタナ宛の手紙は9通しか知られていませんでした。オピエンスキーが1933年にショパンの手紙を編纂したときはそれは22通となっており、ハラソフスキが下記の本を書いたときには50通にまで増えました。これはほんの1例であり、ショパンに関する資料は研究者のお陰で未だに増え続けているのです。それによって伝記は書き直す必要に迫られます。ですからショパンの伝記が次々に執筆されていくわけです。
ショパンの姉ルドヴィカが夫に宛てた手紙が公開されて、ショパンの死後夫との仲が決定的に悪化したことは1968年にその「告白」が公開された始めて分かったことです。従ってそれ以前に書かれたショパンの伝記には当然のことながら触れられていません。
*ショパンは自分の手紙が公開されることなどは考えてもみなかったと思います。これらを保有している家族や縁者は、そこに書かれている内輪な事柄が世に知られること
を必ずしも望んでいなかったことでしょう。
一方、1863年のポーランド騒乱と第2次世界大戦におけるドイツのワルシャワ空爆によって、ショパンに関する多くの貴重な資料が焼失してしまったこと、又、ショパンとジョルジュ・サンドとの往復書簡がサンドの手によって廃棄されてしまったこと、さらに彼の義兄の嫉妬によってショパンの所持していた備品、草稿類が競売に付されて散逸してしまったことなどの不幸が重なって、貴重な資料が多く失われてしまいました。ショパンは伝記作家泣かせといえそうですね。
ここで私は考えます。伝記を書くということの難しさを。伝記はその対象となる人の”真の”姿を伝えるものでしょうか。伝記の著者はそれぞれ主義主張、知識、バックグラウンド、先入観あるいは敢えて言えば偏見、そして信念をお持ちです。対象を全方位から見るというのはまず不可能でしょう。仮令見えたとしても著者はそのどこかの面を強調するでしょう。そこに伝記を読む面白さがあります。そこに真実があるなどと思わない方がいいのです。第一書かれる本人すら”真実”は知らないのです。無意識のうちに都合が悪いことは隠そうとするのが人間です。事実は資料として残りますが、それすら真実を伝えているとは限りません。
ショパンの場合、まず言葉の壁です。ポーランド語はマイナーな言語ですから西欧の人でもポーランド語で書かれた資料や伝聞を誤訳してしまうのも無理のないことです。しかもショパンの場合、彼独特のポーランド語での冗談、語呂合わせや皮肉混じりの表現が多く使われているのも誤訳の原因となっているようです。又十分な調査が出来ないため孫引きが横行するわけです。いかにも自分で調べたような書きぶりで。孫引きといおうか盗用といおうかその線引きは難しいですね。
第一、全く孫引き/盗用なしで伝記を書こうとしたら、あらゆる関係資料を自分でかき集めねばならず、一生かけてもほとんど不可能でしょう。ましてや日本人においておや。
ですから、私も孫引きしています。出来るだけ参考文献を引用して。ただし、それが信頼できるかどうかは出来る限り調べて確認しています。いろいろな美談の類の原典が何処にあるかを調べるのも至難な技ですから、ある本に書いてあって他の本には記載されていないときは、一体どっちが本当なのか分からず悩みの種です。
20世紀半ばになって漸くショパンに関する作り話を追放する機運が芽生えてきました。アーサー・ヘドレイ の功績は大きいようですが、 その最先鋒がアダム・ハラソフスキ(Adam
Harasowski ) というポーランドのショパン研究家、ピアニストで、彼の著作"The Skein of Legends around
Chopin"ーショパン伝説のもつれとでも訳すべきでしょうかーで丹念に調べた結果を列挙しています。この著書はスコットランド、グラスゴウのWilliam
Maclellan 社から1967年に出版されアーサー・ヘドレイが序言を書いています。その後出版社は Da Capo Press に移り1977年、1980年と版を重ねています。
そこには始めに挙げた何人もの著者によるショパンの伝記の中に如何に作り話が多いかが書かれています。それぞれの著者の意図が見通されており興味深いのですが、一方、真剣に調査したにもかかわらず、ショパンの手紙がまだ発見されていなかった時代に書かれたため誤った記述をした例もあり、先人の努力には敬意を払わねばならないと思う節もあります。又、ハラソフスキはポーランド人故にポーランド人の名前が正しく書かれていないことが大変気になるようで、ちょっと辟易するところなきにしもあらずです。
*1つ気に入らないことは彼は日本人がどんなにもショパンを愛しているかを知らないということです。66ページにカラソフスキーの書いた伝記が各国語に翻訳されて いることを紹介した件に"There
was, strangely enough, a Japanese translation of Karasnowsski's book in 1923."と書いているのです。
ハラソフスキだけではなく、たとえばシドフが編纂したショパンの手紙の序文にも、カラソフスキがショパンの手紙を改竄したことに触れてますし、マレク、マレックゴードン・スミスやメルヴィルも作り話を追放しようとしています。
兎に角、今後日本でショパンの伝記を書かれる方々に、あるいは既に上梓されているショパン関係の著作を読んで疑問をもたれた読者のご参考になるかと思い、おくらにすべき作り話をご紹介します。
私はあら探しをしたいとは思いません。余り目くじらをたてることもあるまいとは思います。ただ、間違った記述は訂正するなり削除してなるべく正確なショパン像を描いて貰いたいと思うのです。古い伝記は当てにしない方がいいようです。よく調べた上で孫引きしていただきたいのです。
近刊書でも油断?はできません。Benita Eisler
著:Chopin's Funeral,(Alfred A. Knoff, New York)2003 は、題名が平野啓一郎著;葬送と酷似していて構成も似ていることもあって購入したのですが、チェロソナタ作品65はシューベルトの冬の旅を下敷きにしたとか、舟歌作品60とブラームスのピアノソナタ嬰へ短調作品2との類似性など興味深い記述があるとはいえ、ショパンがワルシャワを出立したとき郊外で自作のカンタータの合唱で見送ったのが、ジヴニーだとし、しかもジヴニー”教授”と称しているのは明らかにエルスナーと混同している大きな間違いです。
*なお、このサイトには著作権を設定していませんから、孫引きしてくださって結構ですが、その場合は一言私に断ってください。
ショパンの誕生日
現在では1810年3月1日 が定説となっています。その根拠としてショパンが1833年1月16日付でパリのポーランド文芸協会長宛に提出した手紙に1810年3月1日、マゾヴィア県ジェラゾヴァ・ヴォア生まれと自筆していること、1837年2月末に受け取った母からの手紙に明記されていること、又姉のルドヴィカからショパン宛に書いた1842年3月21付けの手紙にも明記されていることが挙げられます。ただし、1810年4月23日にブロフフ村で洗礼を受けたとき、洗礼証明書に誕生日として2月22日と記載されたので、長い間ショパンの誕生日は2月22日とされてきました(ガンシュ、ヤキメツキ、ビドゥ、プールタレ、ウィエルジンスキー等)。これは誤って代父のフレディリク・スカルベック伯爵の誕生日が記載されたのだろうといわれています。又、1809年説というのもあります(ニークス、カラソフスキー、ヒューネカー、ハドウ、遠山一行、等)。ただ、それを裏付ける資料が乏しく、上述の理由で、本人や家族が祝っていたことが明らかになった1810年3月1日を採用することになっているわけです。
ワルシャワでのエピソード
ある晩、父の寄宿学校で子供達が騒いでいたのを鎮めようと、ショパンはピアノをずっと弾きながら泥棒の話をしていた。ピアノ演奏が次第に弱くなって行くに連れ子供達は寝込んでいったので、ショパンは大きな音で和音を弾いて目を覚まさせた。というのはカラソフスキーの
作り話だそうです。これを裏付ける資料は何も見つからないようです。
オルガニスト ショパン
ショパンはワルシャワでヴュルフェルからオルガンを習ったといわれていますが、その真偽は別として教会でオルガンを弾いていたことは1825年11月にビアウォブウォーツキに宛てた手紙から明らかです。そこで「・・・・僕は毎日曜日ヴィジタンディヌ教会で子供達が歌うときオルガンを弾いている。・・・・・」と書いています。ショパンのレガート奏法や独特の指使いはオルガンを弾いていたことが大きく影響しているのではないでしょうか。
「ある時、ショパンがミサの最中にその時に歌われた聖歌を元に 即興演奏を始めたが、そのすばらしさに皆が聴き惚れてオルガンのそばに集まってしまい式が進まなくなってしまったので、怒ったが聖具係が飛んできて「何をしているんだ、ミサ中だぞ」といい、司祭は2度
"Dominus Vobiscum" (主は皆さんと共に)と歌い、侍者は鐘を鳴らし続けたがオルガンは止まなかった」というエピソードは嘘か実か。
ワルシャワからの出立
ショパンがワルシャワを去るに当たってポーランドの土を盛った銀杯を贈られ、後にショパンを墓地に葬ったとき棺の上に撒いたという話しはカラソフスキーの創作であるとアーサー・ヘドレイが言っています。
スケルツオ第1番
この曲はショパンが1831年にワルシャワを発ってウイーンに滞在中に作曲されたものですが、その中間部にポーランドのクリスマスキャロル「みどり児イエスの揺りかご」によっているといわれています。プルタレはショパンは幼い頃にこれを村の旅籠屋の戸口で聴いたと書いているようですが、ハラソフスキーはこのような古くて皆が知っているキャロルはクリスマスの時に母と一緒に家族全員が歌ったはずだと反論しています。
シュトゥットガルト日記
ショパンがワルシャワを出てウイーンに行き、さらにパリを目指して旅立った途中に立ち寄ったシュトゥットガルトでワルシャワの陥落を知ったとき、絶望に駆られて書いた日記は有名です。そして、エチュード作品10の12番はその時に作曲されたといわれていますが、それを裏付ける資料はありません。カラソフスキーはその時ショパンはプレリュード第24番と第2番を作曲したといっているようです。しかしこれらの2曲は1837年頃から着手されたというのが定説です。ただし、その際シュトゥットガルトでの出来事を思い出したかも知れませんが。
パリでの最初の誘惑
ショパンのパリでの最初の住まいはブールヴァール・ポアソニエール27番地にあるアパートの五階の小さなアパートでした。ド・プールタレは「・・・・彼の部屋の直ぐ下には若くて可愛い女性がいた。時々階段で顔を合わせ笑顔を交わしたり、一言二言短い会話を交わしたが、ある日彼女は今晩来ませんか。私はいつも独りで、音楽が好きなのですと誘った。ショパンは赤面しながら断った。・・」と書いているそうです。これは明らかな作り話です。
これは多分ピクシスとのいざこざと混同しているのでしょう。
ショパンとジョルジュ・サンドとの出会い
ショパンが何時何処でジョルジュサンドと出会ったかということは興味深いことでしょう。エノーの作り話はカラソフスキーが盗用しさらに色づけしました。
エノーはこう書いています:
「1837年にキュスティーヌ侯爵のサロンで開かれたレセプションの際だった:
・・・サンド夫人は当時人気と美貌の絶頂期にあり、既にその小説「インディアナ」、「ヴァランチーヌ」、「ジャック」、「レリア」などが出版されていたが、ショパンは彼女と会うのを避けていた。彼女との恋によって苦しむことになりたくなかったからである。彼らは
C 公爵邸で初めて会った。そこでのレセプションにはヨーロッパ中の貴族、天才、美女、百万長者たちが招待された。・・・華やかなパーティーも終わりを告げた頃、特に親しかったグループが残っている中でショパンはピアノに向かって座った。彼はバラードを弾いた。これには歌詞は付けられなかったが、そのテーマは明らかに祖国の同胞の夢見る心を反映したもので、私はこのバラードは「槍騎兵の別れ」だと思う。・・・(その話の説明の後で)演奏中に突如彼は青ざめた美しいレリアの顔を見た。彼女は彼を愁いを含んだ熱いまなざしで見つめた。感じやすいショパンは苦痛と喜びで彼女の顔から目を離せなかった。彼女のほころびた唇と涙でかすれた目が彼を魅了した。バラードが続き槍騎兵のギャロップが黒鍵と白鍵の上を駆けめぐるさまを感情を込めて表現した。居合わせた人々はその演奏に聴き惚れていたがショパンはただ彼女のため異だけ弾いたのである・・・」
実際にはリストがサンドからの懇請を受けてダグー伯爵夫人のサロンでショパンを引き合わせたというのが定説となっています。
メトード・デ・メトード
モシェレスとフェティスが共同でピアノ奏法のための教則本(正確には
M師hode des M師hodes des Pianists)
をパリのシュレジンガーが出版したのが1840年のことで、ショパンはその第2巻に組み入れるために3つの新しいエチュードを作曲しました。
一方、ショパンは自分なりのやり方で教えていたピアノ演奏技術を纏めて教則本( un
Projet de
M師hode )を書き始めたのですが、これは未完に終わってしまいました。その内容については、ジャン=ジャック・エーゲルディンゲルの著に記載されています。また、ショパンの親友グルジマワがショパンの死後銀行家のレオに送った書簡には「・・・ピアノの手引き書というのは焼かないで、アルカンとリーバーに遺贈するから何かの役に立つかどうか見て欲しい・・・」とあります。メトード・デ・メトードとは書いてありません。
ところが、日本で出版されているショパンの伝記にはこのショパンの未完の教則本とメトード・デ・メトードを 混同しているものが多いのです。確かにこれは孫引きといえましょうが、その元が何処にあるかは知りません。ショパンが企画していたのは教則本ですが、その書名を10年も前に出版されたメトード・デ・メトードと同名にするとは考えられません。ところが、驚いたことにポーランド人の手によるショパン伝にも同様な誤りがあることを発見?しました(バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著、関口時正訳:決定版ショパンの生涯、音楽之友社、2001)。この書はポーランド語の原資料に基づいて書かれたにせよ、逆にフランス語の資料は十分調べられなかったことでしょう。また、メルヴィルもそう書いています。
これらの著者の方々は、もし再版される機会があったら訂正していただきたいと思います。
両親との別れ
ショパンがポーランドを去ってパリに住むようになって離ればなれとなった両親が、ボヘミアのカールスバードに来たことを知って急遽赴き、しばし再会の喜びを分かち合いますが、テッチェンで別れます。ニークスは彼らはカールスバードで別れたと書いているそうですが、これは間違いです。また、ウィエルジンスキはテッチェンをシェシンと間違えています(邦訳、201ページ)。
デルフィーナ・ポトツカへの手紙
デルフィーナ・ポトツカとショパンとの関係は謎に包まれていますが、二人は程度の差はどうであれお互いに惹かれ合っていたことは間違いないと思います。ヘシックはショパンの女性関係に大変興味を持っていて色々と資料を調べたようで、デルフィーナが晩年身を寄せていたというアルベール・トロビンを通じてデルフィーナの親族達と手紙をやりとりしましたが、ショパンとデルフィーナとの往復書簡の所在や内容を明らかに出来ませんでした。
ショパン研究家の間に衝撃が走ったのは 1939年にパウリーナ・チェルニツカという女性がショパンがデルフィーナに宛てた手紙を所有していると言い出した折りです。1945年に第2次世界大戦が終結してからチェルニスカはそのテキストを公表し精力的に宣伝活動をしました。また、その手紙をタイプした写しをワルシャワのフレデリック・ショパン研究所に献呈しました。これが本物だとしたら正に大発見であり、ショパンの伝記を書き直さなければなりません。ところがチェルニツカはその手紙の真筆はおろか写真コピーさえも提出しませんでした。そして激しい論争が始まったのですがその最中1949年に自殺してしまったのです。その後、ワルシャワにこの手紙に関する特別委員会が設置され、その信憑性が疑われて1961
年にこれらは贋作だと確認されました。しかしその論争の最中に、ショパンの手紙を編纂したシドフがテキストを英訳して発表したため、これを本物と勘違いして何人かの伝記作家がその中に引用しました(たとえば、ウィエルジンスキー、河上徹太郎)。また、イワシュキェヴィッチにはチェルニツカが話を持ち込んだこともあって彼の著書の245〜252ページに経緯が記載されています。
この経緯は1冊の本になるほどのことなので、詳細は文献に譲りますが、そこで著者スモテルはヘシックやハラソフスキを、不明朗な対応をしたと激しく非難しています。しかしながら、スモテルの筆致には論敵に対する悪意とも取れる誹謗が見られ、特にヘシックへの攻撃は凄まじいので却って客観性が失われているのではないかと私は感じるのです。チェルニスカが問題を起こしたときはポーランドはソ連の影響下に置かれており、言論の自由は制限されていて検閲なども厳しかったはずです。自殺の原因は貧困など家庭の事情によるとされていますが、その筋の圧力に耐えかねて自殺してしまったとも考えられなくはないでしょう。
発表された手紙の内容には他のものには見られないかなりエロティックな表現もあり、それからも真筆を疑われたようですが、科学的な筆跡鑑定の結果贋作とはいえないと判定されたものもあります。ショパンだって謹厳実直な青年とはいえません。有名な「変ニ音」はポーランドの俗語で女性のある部分の卑猥な表現だそうです。ショパンは親しい友人への手紙には結構下品な言葉を使っており、父親から注意されています。一方、デルフィーナは貴族の出であり、その親族は仮令そのような手紙が実在していたにせよ家族の名誉を守ろうと公開を憚ったのではないでしょうか。また、彼女の愛人クラシンスキも貴族でしたからその親族は身内のいざこざに触れて欲しくなかったと推察できます。従ってヘシックが両家の関係者に接触しても、そして仮令ショパンと交わした往復書簡が実在してその閲読を許されたとしても、それをコピーするとかその存在を公表することなどは絶対に許さなかったことでしょう。
小犬のワルツ
自分の愛犬が尻尾を追いかけてぐるぐる回っているのを 音楽的に表現するようジョルジュ・サンドがショパンに頼んで作曲されたのが、作品64の第1番のワルツだという話は、ヒューネカーがこんな話は取るに足らない作り話だと言っています。余談になりますが、ヘシックはこれはジョルジュ・サンドではなく、デルフィーナ・ポトツカの犬だと言っているそうです。そういえば、この曲はデルフィーナに献呈されています。
ノクターン作品48の1
このノクターンは起伏の激しい素晴らしい曲ですが、プールタレによれば 「ショパンがある嵐の日に雨を避けてサンジェルマン・デ・プレの教会に入ったときたまたま行われていたミサで歌われていた聖歌を聴いて、これを元に作曲した」といっていますが、これを裏付ける資料はありません。なお、雨だれの曲に関するジョルジュ・サンドの記述も余り信用できません。
ショパンはサロン音楽家ではない!
ショパンは19世紀におけるロマン主義には与しませんでした。 ドイツの音楽学者や評論家達はこれを謳歌し、賛美し、シューマン、ブラームス、ワグナー達の作品を高く評価しました。ロマン派は音楽と文学とを結びつけ、多くの標題音楽を作曲しましたが、ショパンは音以外の夾雑物を排除したのです。シューマンが有名な「諸君、脱帽し給え、天才だ!」と書いてショパンの作品2の変奏曲を美辞麗句で飾られた大袈裟な表現と勝手な解釈でで賛辞を書いたとき、ショパンはそれを笑いものにしました。一方、ショパンがウイーンから友人のヤス宛てに1830年12月26日付けで書いた手紙に「・・・今日イタリア人のレストランで、誰かが(ドイツ人だ)「神がポーランド人を作り賜うたのは誤りだった」と言っているのを聞いた・・・」と書いたように当時のドイツ人はポーランド人を軽蔑していたから、ポーランド人であるショパンの作品を評価しなかったのでしょう。ショパンはパリの貴族達のサロンで貴婦人のご機嫌をとるサロン音楽家であると決めつけられました。パリにはそのようなサロン音楽家の手合いが大勢いたのです。彼らの名は忘却の彼方に去り、今では彼らの曲を知る人もいません。
確かにショパンの曲は抒情的であり甘美なメロディーをもって聴く人を惹きつけます。しかし決してスノッブではありません。勿論サロンで少数の音楽愛好家の貴族や芸術家達の前でピアノを弾くことを好みましたが、一方ポーランド難民のための慈善コンサートを何度も開きその収益を彼らに与えました。それはともかくとして、19世紀後半から20世紀にかけてショパンの音楽は再評価されるようになったのです。ワグナーがショパンの音楽、特に和声に大きな影響を受けそれがトリスタンとイゾルデや神々の黄昏に現れていること、ドビュッシ−がショパンに傾倒してショパン全集のフランス版を編纂し、又自作の練習曲集をショパンの思い出として作曲したこと、その他スクリアービン、アルベニスそしてラハマニノフにも大きな影響を与えたなど、後世の音楽家の先駆者として位置づけられるようになったのです。ブラームスさえもショパンの影響を受けているといわれています(Jan
Swafford: Johannes Brahms, a biography)。このような偉大な作曲家達が”サロン音楽家”の影響で作曲したと言われたらきっと腹を立てたに違いありません。今でもショパンをサロン音楽家だという評論家達はまことに不勉強です。昨2002年にショパンが1839年に作曲されたプレリュードが”発掘”されました。誰が死後200年近く経った単なるサロン音楽家の曲を追い求めるでしょうか。
嘘つきグートマン
ショパンお気に入りの弟子だったグートマンはショパンについて多くの作り話を話しています。
タルノフスキーは「ショパンがあるコンサ−トで注文していたドレスがどれも体に合わず、弟子のグートマンのコートを着たがこれはだぶだぶだったけれど、これを着たままステージに現れた。」と書いていますがこれは明らかにグートマンの作り話でした。ドレスに人一倍凝り性のショパンがそんなみっともないことをしたはずはありません。同じくショパンの弟子だったマティアス
が「ショパンはすらっとしてエレガントであり、いつもフロックコートの襟までボタンを留めていた。そしてぴかぴかに磨いた革靴を履いていた・・」といっていたそうで、そんなおしゃれなショパンがみっともない格好でステージに出たとは思えないとハラソフスキーは書いています。ニークスはグートマンがジョルジュ・サンドと娘、そしてその夫が1848年2月16日に開かれたショパンの最後のコンサートに出ていたとグートマンが言っていたと書いていますが、それは嘘でした。サンドはショパンを見舞いにプラス・ヴァンドーム(ショパンの最後の住まい)に来たが彼にショックを与えるといけないと言って立ち去ったとニークスに言ったそうですが、それも嘘です。ジョルジュ・サンドの伝記作家はその頃サンドはずっとノーアンにいたと書いています。
また、ショパンがグートマンの腕に抱かれて死んだというのも嘘です。ショパンの姉、ルドヴィカの娘で同名のルドヴィカはショパンの死に立ち会いましたが、彼女はその場にはグートマンはいなかったと証言しています。
さらに、グートマンはニークスにショパンの24のプレリュードのコピーをもっているといったそうですが、その証拠はありません。
ショパンとジョルジュ・サンドとの最後の出会い
カラソフスキーは「1848年の3月にショパンがイギリスに旅立つ前、それまで何度もそのサロンに招待されたことがあるある夫人から声がかかった。彼はここのところ彼女のサロンから遠ざかっていたので一度は躊躇したものの内心の声を聴いて受け入れた。彼が到着する前にサンドは既に女主人の
H 夫人とショパンのうわさ話を交わしていたが、大勢が集まると植木の陰にひっそりと姿を潜めていた。青ざめた顔の彼女の神秘的な目には涙が溢れ出た。ショパンが到着したとき、女主人はサンドの手を取ってショパンに引き合わせた。彼女はほとんど聞き取れないほどの小声で「フレデリック」と囁き、長い別離の後の再会に際して仲直りを望んだが、ショパンはその美しく愁いを含んだまなざしでサンドを凝視した後背を向けて静かに去っていった。・・」と書いています。この涙をそそるエピソードは全くの作り話ですが、ニークスもこれを真に受けて孫引きしているのです。実際にはもっと呆気ないものでした。
解剖
ショパンが死に際して生きたまま葬られたくないから解剖してくれと頼んだというのは誤りで、そういったのは父ミコワイであったことが明らかになっています。それなのにこの作り話が未だに生きていることには驚きました(アンドレ・ブクレシュリエフ著、小坂裕子訳:ショパンを解く!、111ページ、音楽之友社、1999年)。