クレサンジェ Clesinger
ソランジュ Solange
生年 1828
没年 1899

ジョルジュ・サンドの娘。父はサンドの夫ではないようである。サンドは長男のモーリスを溺愛し、ソランジュには冷たかった。大体母親は息子、特に長男には特別の愛情を注ぐものだが、ソランジュの場合はその出生も関係していたのではなかったか。

強情で、怠け者、だらしないなど性格は余りよくいわれていない。幼いときモシェレスからピアノを習ったが長続きしなかった。しかしその頃は優しい心を持っているとサンドが言っている。少女になると次第に反抗的になっていく。

ここでソランジュの弁護をしておきたい。生まれつき性格の悪い子というのはいないというが私の持論である。ソランジュは物心付いてから父の愛情を知らずに育った。その上、母は次々に愛人を持ったから、子供よりも愛人の方に生活の中心を置いたはずで、あまりかまってもらえなかったソランジュは母の愛情に飢えたことだろう。サンドがミュッセと関係を持ち、ヴェニスに滞在していたとき、5才のソランジュは何処にいたのだろうか。同行したにせよノーアンに残されたにせよ、母の心はソランジュにはなかった。仮にあったとしてもそれは2の次だった。ミュッセとの恋に破れたサンドはミュッセの医師パジェロと関係を持ち、ついで夫との離婚裁判の弁護士を務めたブールジュの恋人となり、次いで家庭教師のマルフィーユと愛人関係となったのはソランジュ9才の折りである。早熟なソランジュは恐らく次々に愛人を換える母親を批判的な目で見るようになったことだろう。ショパンがノーアンでサンド一家と住むようになってからはー当時11才ー、気立ての優しいショパンに父親の像を写したことと思われる。
一方、サンドは彼女の方針でソランジュの教育を進める。寄宿学校に入れたり、家庭教師をつけたりしたのだが、その家庭教師と関係を持ったのでは早熟な娘が反抗的になってもやむを得まい。ソランジュが母親の愛情を求めてもそれは歪んだ形となり、益々母から疎んじられるようになっていく。思春期の娘の深層心理を作家だったサンドは理解できなかったのだろうか。往々にして自分中心な女にあり勝ちのことだ。

ショパンとはマヨルカ島に行くときに始めて出会ったが、ショパンは彼女に余りいい印象を持たなかった。ソランジュ10才の時である。ショパンとのノーアンでの生活が続く中でサンドのモーリスへの傾倒が嫉妬の種となり、またモーリスがショパンを嫌うようになると、ソランジュは意識的にショパンに近づいていく。ショパンは彼女にピアノを教え始めるが、次第に彼女への嫌悪感が薄らいでいく。それが今度はサンドの嫉妬を生むようになり、次第におどろおどろしい人間関係が生まれていくのであった。

1845年頃になるとサンドとショパンとの間に日常の些細なことを通じて次第に亀裂が入るようになる。1846年の夏、サンドとソランジュ、そして従姉妹でサンドの養女のオーギュスティーヌ・ブローと3人で乗馬競走を見物に行ったとき、24歳のフェルナン・ドゥ・プレオー伯爵という男と会う。彼はサンドによれば教養のない田舎紳士だったが、ソランジュは彼との婚約を発表する。ソンラジュ18歳の時である。ショパンが賛成しサンドは反対したが結局彼らの婚約を認めた。

一方、その前年サンドは当時33歳の彫刻家のクレサンジェに紹介される。彼は黒い髭を蓄え自信家だったのでサンドのご機嫌を取るために様々なプレゼントをし、一家と親しくなった。ソランジュはプレオーとの交際に退屈していたから、クレサンジェの求めに応じてパリの彼のアトリエを訪れて彫像を作ってもらったりしている中に彼の誘惑にあって処女を捧げたこともあって、プレオーとの婚約を破棄して一刻も早くクレサンジェと結婚したいと言い出した。サンドも彼を気に入っていたが、彼の素行の悪さ、借金が嵩んでいること、大酒飲み、女癖の悪さなど、を知っていたドラクロアアラゴ、とりわけショパンの反対に会ったので、この結婚をとりあえず思いとどまらせようとして2人でノーアンに戻ったが、クレサンジェは2人を追ってノーアンに行き、結婚を迫った。サンドはその強引さに負けて、あるいは惚れて、承諾し早速モーリスに知らせた。1847年4月17日のことである。モーリスはソンラジュを連れて父の許に行き未成年の結婚に必要な同意書を貰った。

2人の結婚はショパンには知らせることなく5月19日にノーアンで挙式された。2人は新婚旅行からノーアンに戻るが、そこで大喧嘩が始まって横暴なクレサンジェの頬をサンドが殴ったりした結局2人はパリに去るが、そのときにショパンの馬車を使わせて欲しいとサンドに頼む。それがサンドの逆鱗に触れることになる。このようにソランジュはサンドとショパンとの確執の原因を直接、間接に作ったのである。

ショパンは馬車を使うことを了承したし、又その後もソランジュと文通を続けていたのは、ひょっとしてそうすることによってサンドとのよりが戻ることを期待していたからかも知れない。

ソランジュは1848年2月28日に女の子を出産したが生後まもなく死んだ。

1849年5月10日に2番目の女の子を産んだ。死期の迫ったショパンを何度も見舞い、臨終にも立ち会った。