| ヴィアルド・ガルチア | Viardot-Garcia |
| ポーリーヌ | Pauline |
| 生年 | 1821 |
| 没年 | 1910 |

オペラ歌手。父はマニュエル・ガルシアというスペインの有名な声楽教師。姉はオペラ歌手メゾソプラノの・マリブラン。夫ルイはパリのイタリア劇場の支配人。
17歳の時にパリでデビューする。名ソプラノと賞賛され、パリ音楽界の人気者となったが、ピアニストとしても逸材だった。。歌だけでなく演技も巧みだったのでオペラの演出家は競って彼女に出演を依頼した。また、マイエルベール、グノー、サンサーンスが彼女のためにオペラを書き、ブラームスは彼女のために「アルト・ラプソディー」を作曲している。又、彼女自身作曲もし、ショパンの6つのマズルカに歌詞を付けたりした。
ショパンのピアノの弟子で、彼は彼女の才能を高く評価した。彼女はショパンの伴奏でヘンデル、グルック、ハイドン、モーツアルトのオペラのアリアを歌ったりした。又、二人でピアノの連弾もした。友人の一人にロシアの作家ツルゲーネフがおり、ノーアンに伴っている。ショパンとサンドと親しく付き合いようになり、パリのアパートやノーアンに屋敷にしばしば泊まりがけで訪れている。ポーリーヌは演奏旅行に忙しかったので産まれた女の子をノーアンに残しその養育をショパンとサンドに託したが、ショパンは彼女を特別にかわいがった。
ジョルジュ・サンドの息子モーリスがポーリーヌのレッスンをしているショパンの戯画を描いたのは有名である。彼女はリストにもピアノを習っていたが、ショパンはポーリーヌの演奏を批判してそれはリストの曲を弾くやり方だ、伴奏には向いていないといった。モーリスは彼女に熱を上げた。
ショパンが1842年2月21日にプレイエルのホールで開いた演奏会では、フランショームと共に彼女に共演を依頼した。彼女はショパンの伴奏でラ・フォンテーヌの「樫の木と葦」という詩による曲を歌った。当時、ヨーロッパでも指折りのメゾソプラノ歌手だったため、スペインからロシアまでツアーで忙しかったが、たまたまパリに滞在していたので参加できたのである。
後にショパンとサンドとの間に娘のソランジュの結婚の件で亀裂が生じ、サンドからポーリーヌへショパンを非難する手紙を出したとき、その返事に「・・・貴方が手紙の中で私が看過できない箇所があります。ショパンはソランジュ党で、それで彼が貴方を犠牲にし傷つけるようにさせたという箇所です。これは全く嘘です。少なくともショパンに関する限り私はそのことを誓います。反対に、この親愛な優れた友はたった一つの考えで一杯で悩まされているのです。それはこの不幸なことが貴方を傷つけたし、今も傷つけているのだという思いです。私はショパンは少しも変わったとは見受けられません。彼はこれまでと同じく親切で、献身的で、変わらずに貴方を崇拝し、貴方の喜びを喜びとし、貴方の悲しみだけを悲しみとしております。点に掛けて、愛する貴方よ、やってきては陰口を利く、そういうお節介な友人達を決して信じてはいけません・・・・・」と書いている(1847年11月19日)。また、1848年にショパンが革命騒ぎを避けてロンドンに渡ったとき、同様に逃れたヴィアルドがコヴェント・ガーデンでショパンのマズルカに歌詞を付けた歌を歌った。5月13日付のグルジマワ宛ての手紙でショパンは「・・・彼女はパリの時より気がおけなくなっていて、私のマズルカを私から頼まれなかったが歌った。・・・」と書いている。
1849年1月30日にはサンドにショパンの病状が悪化していることを知らせている。その中でも彼は少しも変わっていないと強調している。
マドレーヌ寺院でのショパンの葬儀に当たって、モーツアルトのレクイエムのソロを受け持ったし、1857年にワルシャワで開いた演奏会ではショパンの歌曲をポーランド語で歌った。