ショパンの歌曲

ショパンは幼い頃からピアノを習い親しんできましたが、父ミコワイはフルート、ヴァイオリンをたしなみ、母ユスティナはピアノを弾くという音楽的に恵まれた家庭的環境の中で育ちました。おそらく母はピアノに向かって、あるいは弾きながらポーランドの農民の歌などを歌って聴かせたことでしょう。また、生家の周りの農民たちの踊りも見て楽しんだことと思います。

ショパンは14才と15歳の夏に、ワルシャワの北西100km足らずのところにあるシャファルニアという村で過ごしています。ショパンの家に寄宿していた級友のドミニクの父ジェヴァノウスキが領主をしているその家で優遇されて楽しい日々を過ごしました。
そこでワルシャワの日刊紙「ワルシャワ通信」を模して、自分で「シャファルニア通信」を編集して家族や友人に送りました。この興味深い記録を読んで分かるのは、都会っ子ショパンが田舎での素朴な生活の中で、農民と接し彼らから農民の歌を楽しみながらいろいろな経験を積んだことです。
祝い事やお祭りの際に農民たちが歌う時には必ず踊りが入ったでしょう。その踊りは当然、マズルカなどのポーランドの踊りであったに違いありません。
ショパンはこうして歌と踊りを楽しんだに違いないと思います。  
ショパンが歌曲やオペラの愛好家であったことは、このような体験が原点となっているのではないでしょうか。


ショ パンは自作の歌曲を出版しませんでした。それはいわば’”世に問う”つもりが毛頭なかったからだと思います。友人のフォンタナがショパンの遺稿を整理して 17曲を作品74としてまとめて出版しました。最初フォンタナが選んだのは16曲で1857年に出版されましたが、後にシュレジンガーがもう1曲追加して 17曲としました。1874年のことです。また、このほか2曲が作品74とは別に1910年に出版され、現在では、19曲がショパンの歌曲として出版され ています。

ショパンの遺稿を整理するに当たって、フォンタナは作品番号を作曲年とは無関係に付けています。マズルカ、ワルツと同様に、作品74も枝番と作曲年とは対応していません。そこで、ここでは作曲年順に並べてみました。


番号
作品番号
調性

拍子

曲名
作詞家
小節数
作曲年

1

74-1
ト長調
3/4
願い
ヴィトヴィツキ
66
1829
2
74-5
イ長調
6/8
好きな場所
ヴィトヴィツキ
29
1829-30
3
74-6
変イ長調
3/4
私の前から消えて
ミツキエヴィッチ
56||
1829-30
4
74-7
ニ長調
2/4

使者
ヴィトヴィツキ
88
1829-30
5
74-4
ハ長調
3/4
酒宴の歌
ヴィトヴィツキ
48
1830
6
74-10
変イ長調
6/8
つわもの
ヴィトヴィツキ
37||
1830
7
なし
ニ短調
2/4
魔法
ヴィトヴィツキ
18
1830
8
74-3
嬰ヘ短調
2/4
悲しい川
ヴィトヴィツキ
104
1831
9
74-15
ハ短調
2/4
許婚
ヴィトヴィツキ
47
1831
10
74-16
ヘ長調
C
リトアニアの歌
オシンスキ
47
1831
11
74-14
変ホ長調
3/4
指輪
ヴィトヴィツキ
52
1836(1831)
12
74-17
変ホ短調
3/4
木の葉が舞い落ちる
ポル
112
1836
13
74-12
変ト長調
3/4
かわいい甘えん坊さん
ミツキエヴィッチ
85
1837
14
74-2
ト短調
6/8
ヴィトヴィツキ
56
1838
15
なし
イ短調
2/4
ドゥムカ
ザレツキ

8

1840
16
74-8
ニ長調
2/4
素敵な若者
ザレツキ
32
1841
17
74-11
ニ短調
2/4
2つの結末
ザレツキ
48
1845
18
74-13
イ短調
2/4
あるべきものなく
ザレツキ
67
1845
19
74-9
ホ短調
C
メロディー
クラシンスキ
47
1847-48
注:小節数の後に||とあるのは括弧による繰り返し、||とあるのはダルセイニョ

表を見てまず気づくのは19曲中10曲がヴィトヴィツキの詩によるものだということです。ショパンがワルシャワの”穴倉”というカフェで政治、哲学、芸術などについて熱っぽく議論を戦わしていた若者の中にいた頃、知り合った詩人の一人がヴィトヴィツキでした。上の表に挙げたミツキエヴィッチザレツキクラシンスキ、 ポルも皆そのころの仲間でした。彼らは愛国詩人と呼ばれ、ポーランドの独立を願った詩を書いていたのでしたが、ヴィトヴィツキの出版した詩集を献呈された ショパンはその中からいくつかを選んで歌曲を書いたのでした。なお、ヴィトヴィツキはワルシャワ蜂起の失敗の後パリに亡命し、ショパンと再会し、死ぬまで ショパンと親しくしていました。 

ショパンの歌曲と同時代のロマン派の作曲家、シューベルト、シューマン、ブラームスたちの歌曲との大きな相違点は、後者が追求した言葉と音楽との融合とは無縁の、いわば歌謡曲スタイルであるというところにあります。
つまり、同じメロディーを歌詞を変えて繰り返すもので(有節歌曲形式というそうです)、賛美歌や民謡にもよく出てくる1番、2番・・・というようなス タイルです。上の表の番号(作品番号ではなく)で5,6,7,9,15,16,18の7曲がそれで、これ以外の曲も繰り返し記号がなくても同様にメロ ディーの繰り返しで作られているのがほとんどです。
後で少し詳しく見ていきます。

ショパンは音楽と文学とは別物と考えていましたから、ロマン派の路線には与しなかったのです。ショパンが文学の素養に欠けていたということはありません。若かりし頃の友人への手紙を読むと、彼が古典に通暁していたことが分かります。

ショ パンはパリに住みついても祖国ポーランドは忘れがたく、亡命ポーランド人たちと一緒に懐かしい祖国の歌を歌ったことでしょう。その証拠にショパンの歌曲は すべてポーランド人の詩を使っています。発掘されていない多くの歌曲があるそうです。これらを出版することなど全く念頭になかったことでしょう。


実をいうと私は歌曲、詳しくは外国の歌曲、が苦手なのです。歌というのは音楽のもっとも根源にあるもので、それが生まれた土壌、歴史的背景、民族性、環境それに言語についての素養がないと本当の内容が理解できないからです。
日本語だとことわざ、言い伝え、あるいは言葉の遊びなどが含まれていようと何の問題もなく理解できるし、一方これを外国人に伝えようとするとこれは絶望的な努力を必要とします。
英語、フランス語、ドイツ語は学校で勉強した程度での理解はできますが、それだけでも共感し感動する歌曲もあるとはいえ、深くは分からない。母国人が理解できると同じ程度には決して理解できないと思うのです。

それでも共感できる歌というのはメロディーの美しいものです。それは音楽が国境を越え、それぞれの民族に固有な言語とは無関係に、人間の心に直接語りかけることの出来る普遍的な“言語”だからです。
ショパンの音楽はそのような“言語”だから基本的には説明的な言語は不要だったのです。彼が歌曲を書いたのは、音楽というよりは人間、人生を音で綴ることが目的だったのではないでしょうか。

 

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